かもがわ総研

ベトナムでもがく中間管理職です。営業、マーケ、法務、採用なんでもやってます。

台湾の思い出

先日大学時代に一緒に台湾に行った女友達が台湾人男性と結婚したというポストをFBで見て懐かしい思いがした。


ぼくと台湾の出会いは大学の短期留学プログラムに参加したことから始まる。

ぼくは第二外国語として中国語を選択していて、年度末の終わりに先生から台湾のプログラムに人が集まらなくて中止になりそうだから参加してくれないかと頼まれた。

当時は旧民主党政権下で円高になっていたので安い費用で済むだろうという軽い気持ちで引き受けた。4週間で半分は台北の大学の学生寮、もう半分は一般家庭にホームステイで10万強くらいしかかからなかったと記憶している。

人数はぼくを含めて5人しかいなかった。本当によく中止にならなかったなと思う。出発は期末テストが終わって翌日くらいの出発だったと思う。

この日が初対面だったので初日はみんなで夜ご飯を食べに行ったらその夜(授業が始まる前日)、ぼく以外の全員が下痢嘔吐を催し、初日の授業はぼく一人のみ。結果的にマンツーマンレッスンになり先生は爆笑していた。


ほかのメンバーはみんな個性的で中国語はまったく話せないので、授業中だけでなく街に出かけるときもぼくが通訳を買って出た(ぼく自身もそれほど話せるわけではないが)。
ぶっちゃけ台北の大学で受けた授業よりもみんなの通訳係が一番中国語の経験値がたまったと思う。

主要観光スポットへの道を尋ねたり、タピオカミルクティのカスタム注文(味、氷の量、甘さなど)、夜市で買った偽ブランド品の返品交渉、イケメン現地大学生の逆ナン(の通訳)など思い出しただけで濃い思い出がよみがえってくる。

返品交渉のときなんかは中国語でブチ切れられたらソッコーで逃げようなと話し合わせていて、手からいやな汗がどっと出てきたことは忘れられない。ブロークンの中国語でよくこんなことやろうと思えたもんだ。最近こんな濃い体験していない。


個人的に台湾のことで忘れられない思い出はふたつあって、

一つが台北101に観光しに行ったときにみんなとはぐれてしまって途方に暮れていたとき、台湾人のおじいさんに助けてもらった。外国人としてはうまい日本語だと思ったので、日本語上手なんですねとお礼とともに言ったところ、「昔は私も日本人だったんですよ」と返ってきた。

そのときぼくは何のことかわからず中途半端な返事をして別れた。このときは日本と台湾のことを何も知らなかった。寮に戻ってから自分の無知を恥じた。このときから日台の歴史も勉強しようと思った。


もうひとつは、台湾滞在中に東日本大震災が起こったことだった。そういえばもうすぐ3.11が近い。もう8年も経ったことがにわかには信じられない。東日本大震災をきっかけに人生を見つめなおした人は多い。あまりに簡単に人が死ぬところを目の当たりにして命の儚さを知り、後悔ないように生きねばと思うのだ。社会人1年目の夏休みにタイのバンコクを訪れたが、日本人ホステルのオーナーは震災後にタイに移住していたが、移住の決め手になったのはやはり震災で、やりたいことは今やらないとと思ったそうだ。ぼくは当時東北地方には知り合いはいなかったので特段心配はなかったが、テレビモニターで繰り返し映し出された、仙台空港が真っ黒い津波に飲まれていくシーンは衝撃的だった。


さらに驚かされたのは被災した日本に対する台湾人の行動だった。地震発生後、即座に日本を支援するためのチャリティがいくつもできていった。中国語の先生にも、現地の学生にも、ぼくが日本人だとわかるやいなや「日本加油(日本がんばれよ!)」心強い応援の言葉をいただいた。ぼくは日本のことを思う台湾の人の多さに心を打たれた。その後台南でも地震が発生したときはその時のお返しを、と日本で立ち上がった人たちがいた。ぼくは台湾に対してまだ大したお礼はできないけれど、感謝の念は持ち続け
たい。

 

前職の先輩に、ぼくが退職するときに「まだ何もお世話になった恩返しできていないのにすみません」と言ったところ、「恩なんか返さなくていい。その代わりお前の目の前に助けを必要としている人がいたら助けてやれ」と言われた。

数年前に台湾旅行に行ったときにたまたま行きのフライトで隣の席に座っていた女の子と意気投合して仲良くなって今でも時々遊びに行く間柄だ。去年はその子の転職活動や家探しにも率先して協力している。案外、人とのご縁というのはこうして繋がっていくものなのかもしれない。